2018年1月8日月曜日

ここが変だよ、アクティブラーニング

2014年11月に、下村文科大臣による初等中等教育に関する中教審への諮問でアクティブラーニングが言及されました。それから3年ほどの間に多くのアクティブラーニングに関するマニュアル本やガイドブックが出版され、日本全国の学校で先生方により様々な実践がなされています。教育現場では過熱気味とも言える状況ですが、私自身はアクティブラーニングそのものに反対ではないものの、俄かに起こった流行ともいえる現象をいささか懐疑的な目で見ています。

まず、アクティブラーニングは「対話的・主体的な学び」であると言われますが、先生が「対話的」であることにこだわるあまり、マニュアルに記載されている授業の型を追うばかりで、生徒が「主体的」であるべきことが置き去りにされていないでしょうか。いま大学1年の我が家の娘はアクティブラーニング型授業に熱心な高校へ通っていたのですが、あるとき彼女が漏らした一言が先生と生徒の温度差を表していて記憶に残っています。


「なんかよくわかんないけど、明日アクティブラーニングの公開授業だとか言って、先生一人ものすごい張り切ってんの。」

先生ばかりが熱くなって、生徒たちは冷めている様子がうかがえますが、これが多くの学校現場で起きている現実のような気がします。これでは、先生にとってのアクティブ・ティーチングであり、生徒にとってはアクティブ・ラーニングに過ぎません。アクティブラーニングとはどのような学習法で、従来の授業と何が違い、何で必要なのか、こうした点を生徒たちが正しく理解したうえで「主体的に」授業に臨んでこそ意義があるのだと思います。

また、アクティブラーニングはあくまで集団一斉授業が前提となった「授業レベル」の改善策に過ぎないことにも不満です。21世紀のグローバル社会において子どもたちが今後ますます厳しい競争を強いられるなか、教育先進国が集団一斉授業から個別指導へと大きく舵を切り始めている一方で、日本だけが授業レベルの改善で満足していてはいつまでもグローバル基準には追いつけません。もっと大きな学校レベルの改革、いや教育制度そのもののコペルニクス的転回をいますぐに実現しないと、彼我の差は開く一方です。そうは言っても教育改革は一朝一夕には実現しないよと主張する方には、「いつまでも明治時代と変わらない教育を受けさせられる子どもたちに対する責任は一体誰が取るのか」と問いたいです。

「アクティブラーニングは21世紀の教育」であるという言葉もよく聞きますが、それはあくまでも極東のガラパゴスの中でしか通用しないことです。少なくとも私が留学した1980年代半ばのアメリカの大学では、30人ほどのクラスでも教授と生徒が喧々諤々と議論したり質疑応答することやグループで意見を出し合って発表することなどはごく当たり前のことでした。「授業中は先生の話を静かに聞いて、板書を丁寧に書き取ること」と小学校から教育されてきた日本人の私には、まさに青天の霹靂ともいうべきカルチャーショックだったことを鮮明に憶えています。1980年代のアメリカの大学でアクティブラーニングが実践されていたということは、当時すでに小中高でそうした教育が実践されていたことは間違いありません。

アメリカのメディアでアクティブ・ラーニングという用語をあまり見かけないのは、アメリカではラーニングがアクティブなのは当たり前で、あえてアクティブという形容詞を付ける必要がないからだと思います。もちろん、アメリカの教育制度にも数々の問題があり、日本の方が優れている点もありますが、少なくともアメリカの大学には出席だけして寝ている生徒や内職と称して授業とは無関係の作業に没頭しているような生徒はいないことも事実です。

冒頭にも書きましたが、私はアクティブラーニングそのものに反対なのではありません。むしろ、ラーニングがアクティブなのは当然であると考えています。ただ、それをいまさら何か大きな改革であるかのように錯覚し、それで満足してしまうことに大きな危惧を覚えるのです。

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